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あほ犬日記

10/17

 かつて、戦争直前の空気の中で、笑いのセンスが急落し古参漫才師が嘆いていた事に関して、徳川夢声が「つまり、客は不安で浮かれているのだ」と述べたという。今思うとこのコロナ騒ぎ、なんだか4月5月は、みんな「不安に浮かれていた」んじゃないかと思ってしまう。今回のことは、必ず歴史に残る一大事件だと思うが、はたしてそれが何だったのか、どういう騒ぎだったのかということは、何十年か経って暴かれるのではないか。
 ライブ再開した6月13日から、地元のミュージシャン達を中心に、ライブをやってきた。着席してテーブルがあり、ある程度距離を保って聴ける形が定着している得三のようなライブハウスが、まずライブを続けていかないと、その次が始まらないと思ったのだ。限定人数でお客さんが少なくても、なんとかやってくれるのは、地元の交通費・宿泊費のかからない人達だった。お客さんも、近隣の人が中心だった気がする。ミュージシャン達は、こちらが誘うとほとんどの人が「やろう!やろう!」と快く引き受けてくれて、連日店としての風景が成り立っていくのは、本当にうれしく、お客さんも含め地元の人達と、今までより一層つながりが出来たような充実感がある。こういうことが、コロナが明けた次に、なにがしかの形で繋がっていくのだと実感している。転んだ先で百円拾ったようなものだが、その百円は千円に化ける。
 東京は名古屋と比べてまだまだ状況が厳しそうなのだが、ライブハウスで動いているミュージシャン達は、9月くらいから少しずつ動き出している気がする。この間、配信ライブという形態が浮上して、演る方も観る方もそれなりに、精神を保つ助けにしてきた気がするが、やはり、実際動いて、お客さんの前で演奏をしたり、生演奏をその場で聴いたりすることの価値と意味を、今更ながらに感じ取っている人達は多い。
 冬場になって再度感染が増える可能性も大いにあり、予断を許さないが、みんな少なくとも「不安に浮かれる」事に対する免疫はすでに持っていると思う。

9/26

 the 原爆オナニーズのドキュメンタリー映画が完成した。大石規湖さんという監督が、一昨年の今池祭りから、去年の祭りまで一年間追い続けて撮り、今年の今池祭りに向けて公開しようとしていた矢先、コロナ自粛で祭りも映画公開もままならぬ状況になってしまったのだが、満を持して10月30日から、地元今池の名古屋シネマテークにて公開される。
 僕にとって原爆(バンドのことね!)は、旧オープンハウスから40年近く付き合いがあるのだが、他のロックバンドとは一線を画すスィング感を持った失踪するビートと、ヒリヒリとした痛みを伴う緊張感が、唯一無比!大ファンなのだ。
 一足早く、先行上映で観せていただいたのだが、今回、大石監督が描き出すのは、その存在感を40年にわたり、いかにして持続させ得たのかという、バンドの「在り方」の秘密である。といっても、原爆は「よしっ、これこれに向かって頑張ろう!オーッ!」というようなバンドでは無い。言葉ではとうてい説明しようのない関係性が捻れて成り立っているのだ。それを監督は、メンバー達がボツボツと語ってゆくそれぞれの有り様を丁寧に積み重ねて編集し、演奏や楽屋の映像で実証、周りにいる人の言葉で少し補足しながら見せていく。映画を見ながら、今まで見てきたことや、話したことを思いながら、ギャハハと笑ったり、頷いたり、とても面白かった。いいドキュメンタリーだと思い、嬉しくなった。
 僕は、原爆の最初期は知らないのだが、その後割と彼らの近くにいた気がするし、今池祭りとの関わりも含めて体感しているのだが、そうじゃないファン達や、原爆のライブを見たことの無い人達は、この映画をどう感じるんだろうな。それはこれからの楽しみです。是非、観に行ってみてくださいっ!!
 しかし、バンドを40年もやっていれば、当然のごとくなかなかのオッサンである。同年代の自分としては、どう最終コーナーを曲がりきってラストの直線を走るかだが、原爆は、どう走るんだろう。まだまだ付き合うのが楽しみにもなったのだ。

8/29

 9月と言えば、我々にとっては、なんと言っても「今池まつり」である。平成元年に始まり、今年は32目を迎えるはずだった、大都市名古屋のど真ん中で毎年行われる、この「爆音村祭り」が、今年は中止となった。
 イベント業者や、代理店を一切使わず、商店街のメンバーのみで、およそ半年をかけて計画・運営しているこの祭りは、10箇所以上ある会場の出演者のほとんどが、今池へ足を運んでくださるお客さん達であり、それは大小あらゆるステージが同等の価値を持って、まさに村祭りと言うべき、年に一度の祝祭となる。それは、待ちに待った村人達の熱気とともに、共同体独自の自治感覚さえ生み出しているようにも思う。
 どう考えても今年の開催は無理だとなったすぐ後から、やっぱりあちこちから、小規模でもなんでも、やれることは無いのだろうかとの声が上がる。気持ちが収まらないのである。
 まず、昔の今池の町並みを捉えた、「今池回顧写真展」は出来るだろう。来年の告知も兼ねて、「今池祭り、来年会おうっ!」のポスターも張り巡らそう。得三では、一日目に、今までの「今池まつり」を振り返って、爆笑しながら原点を継承できるようなトークショー。二日目は、あまり顔を合わせることが出来ない、各会場のスタッフ達の交流会で、今池名物バンドのライブをやっちゃおう。いずれも、配信を予定している。
 そして、メイン行事として、有志各店舗が、期間中それぞれの店でなにか出来ることをやろうとなった。小さく、数多く、分散すればいいのである。大きな目印は無くとも、それが、全体のムードを醸し出し、それを感じられる人には、なにがしかの祝祭感をもたらすかも。これはこれで、今池でしか出来ない事なのかもしれない。
 てなわけで、今池はこの期に及んで、まだワクワクしているのである。みなさんも、ハードコアTシャツを着て、GO TO IMAIKE!!

7/29

 3月後半から4月にかけて、映画を観ても本を読んでもさっぱり頭に入ってこず、しばらく本屋にも行っていなかったのであるが、少し落ち着いたのでしばらくぶりに正文館に立ち寄ったら「ブルース百歌一望/日暮泰文」というのが出ていてこりゃいかんと買ってきた。
 日暮泰文さんはPヴァインレコードの創業者で、黒人音楽研究家。旧オープンハウス時代は、氏が創刊した「ザ・ブルース」という雑誌を片手に、日がなブルースのレコードを聴き、氏が招聘する本場ブルースマン来日講演「ザ・ブルース・ショ-!」を、毎年拳を握って心待ちにしていた。日暮さんは、日本にブルースと言う音楽を根付かせた大恩人なのだ。
 Pヴァインを勇退し、しばらくしてから出した「RLーロバート・ジョンスンを読む:アメリカ南部が生んだブルース超人」という本は、謎に包まれたR・ジョンスンと言う伝説の陰影を、丁寧に一枚一枚剥がしていって、生の姿を垣間見ようとする力作であったが、「ブルース百歌一望」も、これまた渾身の一冊。1920年、初めてブルースが録音されてから100年間、レコード盤に刻まれた101曲を題材に、アメリカ社会の中の黒人史、時代と地域と伝達の関係性、そして101個それぞれ個人の人生を自在に絡めながら、手を変え形を変えながらも延々と連続するその音楽と文化の根底をあぶり出してみせる。実に魅力的で奥深く、あぁ聴いてみたい!今一度聴き直したい!と思うこと必至。誰もが聴いたことのある超有名音源から、名前すら聞いたことの無い人の曲まで有るのだが、持っていない音源を一曲ずつ買い集めてみようかとも思う。その情報量のでかさと深さにおののきながら、もったいなくて一曲一曲丹念にジワジワ読んでいくと、いつの間にやらずぶりずぶりとブルースの沼奥に引きずりこまれていってしまうかのようだ。みなさんも、是非とも堪能して、オープンハウスで一緒に音源を聴きながら、あれこれと思いを馳せようではないか!

6/29

 得三が6月13日にライブを再開して半月あまりが経った。26日からは、朝5時までの深夜営業も再開。28日にはオープンハウスも週末ライブを開始して、コロナ前にやっていた状態に、一応形だけは戻してみたことになる。まだまだ、全くの手探り状態ではあるものの、6月中にここまで出来るとは1ヶ月前には思ってもいなかった。もちろん、スタンディング主体のライブハウス等は、その一歩手前の状態だと思うし、東京にいたってはまだまだ言わずもがなであろう。今回のコロナ騒ぎ、「起」が終わって「承」が始まり「転」が無いのを祈りつつ「結」を待つ、といったところか。そして、次にどうなってゆくのかは、はてさて、どうなりますことやらといった状態で、コロナウィルスをあたふたさせる起死回生の革新的な一手を、瀬戸まで行って藤井聡太七段にでも教えを請おうかと思っております。
 今月、ライブハウス再開に当たって、愛知県からのガイドラインというものが出されたが、コロナウィルスに関しては、行政はおろか学者ですらよくわからないのであるから、要請をするといっても、すべてが適切で効果的だというわけがない。それは、しょうがない。もちろん、自分の店と照らし合わせて、出来る範囲のことはやるのであるが、すべてを徹底してしまっては店は成り立たないこと必至であるし、幼稚園児じゃあるまいし、あれしちゃいかん、これしちゃいかんと、いちいちお客様に言うのもどうかと思われる。結局は、店側、出演者、お客様、一人一人の自覚と判断で、その場その場、感染を押さえていくしか無いのだよねぇ。そこに頼るしか、やりようが無いだろうと思うのだ。スーパーマーケットでだって地下鉄だってきっと一緒のはずだ。僕は、今こんな時でもあえてライブハウスに足を運んでくれるお客さんたちというのは、みんなちゃんとそういった意識を持った人達だと信じている。そして、そんなお客さんたちが久々に生で音楽と対峙する喜びを確認し、受け止めてくれている様子を感じて、とてもうれしく思い、感謝しております。

5/31

 これを書いているのは5月31日。いよいよ明日ライブハウスも休業要請が解除される予定である。得三も店を開けることができ、オープンハウスもコロナ前の状態に戻す。ようやく、遠くのほうに長いトンネルの出口が見えてきたような気がするが、これからいろんな事を試したり確認したりしながら、徐々にできる範囲で店を立て直していくのが一仕事となるだろう。休業中にスタッフ全員でやってきたことが、どのように機能していくのか楽しみでもある。とりあえず得三はライブを再開するが、密を避けるための人数制限と、県またぎを避けるため地元出演者のブッキングからスタートすることにする。  しかし、うちのようなテーブルと椅子を出してライブができる店はいいのだが、オールスタンディングで体を動かしながら一体となるライブ中心の店は、まだ躊躇しているところが多いようだ。得三の様なライブハウスに始まって、スタンディングライブ、大ホール、千人以上のスタンディングライブ、大規模フェスティバルまでいくには、どのくらいの時間がかかるのか。また、以前通りやれるのか、どう違ってくるのかというのは誰にもわかっていない。みんなで情報を共有しながら探っていかねばならないと思う。  街全体も、警戒しながらも少しずつ人が動き出している気配だ。その反面仕事のなくなった人や、苦境の続く人たちもかつてなく多いと聞く。ライブハウスより苦境に陥っている分野は数知れずある。「なんちゃら法人ユーレイ・システム」みたいのやら「天下り大御神」みたいのやらが、裏で薄汚い舌舐めずりをする一方、精神的に追い詰められて、人が病んでくるような現象が出てくるようで気が重い。訳のわからん犯罪があったり、差別が横行したり・・・。  人が歪まず前を向いていれるよう、音楽はなにかを出来るかもしれないと思う。音楽の意義、祝祭の意味、頭の隅にそんなことを意識して徳三を再開したいと思う。  「Always, try to do the right thing.」とメイヤーは言った。 それぞれの「right thing」をっ!

5/19

 5月15日に、愛知県の自粛要請が一部解除されたが、ライブハウスは、引き続き自粛要請。まだまだ、当然だと思う。仮に自粛要請が解かれたとしても、「感染防止対策を徹底していただくことが条件」とかなんとか言って丸投げにされるわけで、どうしたのものやらなのだが。ましてや、出演者、お客様、双方が遠方から移動してくる可能性があるということになると、やっていいやら悪いやら・・・。さてさて、6月はどうなってるんでしょう。
 とは言え、ライブハウスだけが厳しいわけでは決してなく、例えば居酒屋チェーンや、パチンコ屋チェーンの方が、たぶんきついんじゃないかと思う。そんな中、「文化を守ろう」みたいなことを言われると、なんだか違うなぁと思ってしまうんだよね。テレビの取材とかが来て、厳しい状況を喋ってくれなんていわれると、アホかと思ってしまう。
 ただ、面白い発見なんかもあるのだ。この人は、どういう立場で、どういう考え方をする人なのかというのが、凄くはっきり見える気がする。いい悪いでなく、人間の輪郭がクッキリ見える印象。ということは、僕も丸裸で見えているわけで、気を抜けないな。今池商店街で展開している「今池ハードコアは死なず!」キャンペーンは、とても手応えがあって嬉しいことになっている。あらゆる業種の店にポスターが張り巡らされ、「死なず!死なず!」と、それぞれが声を上げている様子に、連帯と覚悟を感じるのだ。歩いていると、気持ちが前向きになるんだよね。いい商店街だぁ!
 現在5月19日、店を閉めちゃった人もいるし、仕事をなくした人たちも随分多いと思う。にもかかわらず、助成金とやらは一向に届かない。政治家とやらの無能さの輪郭もハッキリ浮き彫りに見える。そんな中、気持ちが病んでしまうのが、なんだかんだ言って一番嫌だ。訳のわからん犯罪があったり、差別が横行したり・・・。そんな気持ちの悪い社会は御免被る。こんな時こそ、この期に及んでポジティブに!と思う。
「Always, try to do the right thing.」とメイヤーは言った。
それぞれの「right thing」をっ!

4/19

 3月中頃までは随分と呑気なことを考えていたものだと思う。ライブの無くなった日には、照明ブースを改装したり、オープンハウスの事務所を作ったり、こんなことでもないと出来ないことをみんなでやって、それなりに充実していた。4月からは徐々に回復し、5月5日の「今池遊覧音楽祭」には今池愛好家達が爆発しているはずだった。がしかし、真逆の展開で3月終盤から急激に緊張感が増し、4月7日には東京をはじめとする地域に緊急事態宣言。4月10日には愛知県でも発令されて、得三もライブをすべて中止した。それから一週間とちょっとの現在4月19日。全く終わりが見えない閉塞状態となっている。
 この一週間というもの、次々と中止になるライブの残務処理や諸々申請書類等と格闘しながら、オープンハウスのランチを開始したり、慌ただしいことこの上ない時間で本当に一日が長い。そんな中、気付いたのだが、どうやら僕は人と会って話したり呑んだりしている時間が無いと、色んなアイデアが浮かばないようなのだ。密室で事務仕事をしていては、全く柔らかい発想が沸いてこない。人と会わないようにしようと日本全体が自粛しているときに、誠に不謹慎なのだが、やはり少しでも人と顔を合わさなければ、次に向かう気持ちになれないのである。
 幸い、心配してオープンハウスの持ち帰りを買いに顔を出してくれる友人もいれば、道を歩けば他の店の店主達と顔を合わせて、考えていることを立ち話することもできる。そんな中、「おうちで今池物産展」という今池のテイクアウト情報を集めたサイトを作って、みんなに声をかけてみたりするのは、楽しいひとときだ。
 4月に入ってやれたライブは4本で、僕が見る事が出来たのは3本。さすがにお客さんの数は少なく、それぞれ20人程度であった。きれいに間隔を空けてまばらに席を取り、楽しんでくれているようにみえた。「ギターパンダ×貝がらMAX」「友部正人」「吉田美奈子×小島良喜」。こんな状況の中、それぞれの覚悟と思いを持って来てくれた3組のミュージシャンと、それでもやって来てくれたお客さん達の間で鳴っていた、緊張感と強い希求に満ちた音楽は得三のかけがえのない財産です。

3/14

やっぱり書いておいてみようと思う。
 ライブの中止および延期が、相次いでいる。この原稿を書いている三月十四日の時点で、とんでしまったライブは二店舗合わせて十八本。頭の中では、ずう~っと円広志のサビがループしていている。こんなことって有るんですなぁ・・・。テレビでは連日ライブハウス・デメリット・キャンペーンの絨毯爆撃、ライブハウスこそがクラスターの一大拠点であるかのごとくアナウンスされる。
 そりゃ、すし詰め状態で跳んだりはねたりワァワァやっているのであればクラスター発生確率は高いであろう。得三でスタンディングすし詰め状態は二〇〇人くらいだ。だが、こんな日は年に一~二回有るかなのだ。ライブの八割は一〇〇人も入らない。時々イェ~イと言ってみたり、ギャハハと笑ってみたりはするが、あとは全員椅子に座って飲食をしながら黙って聴いているのである。五〇人を切る日だってたくさんある。平日昼間の地下鉄より人口密度は低いし、天井だって三メーター以上ある。すし詰めにもなんとか対応できる換気システムは十分需要を満たしていると思う。ライブハウスや、イベントへ行くことではなく、その場所がクラスター発生環境なのかどうかが問題なはずだ。そこをもっとはっきり、わかりやすく提示すべきである。
 さらには、知り合いが「あなたはいつもライブハウスへ出入りしているから、二週間仕事に来るな。」と言われたという。こうなってくると福島からの疎開者を差別するのと何ら変わらないではないか。なんでもいいから声高に文句を言っていないと死んでしまう体質らしきクレイマーさんたちの矛先が、ライブハウスに向けられていると言う話も聞いた。もう、馬鹿馬鹿しくて屁が出るわ。
 僕の知ってるライブハウスやミュージシャン達は、それぞれちゃんと考えている。誰かに何かを言われないと何も出来ないような人間では、我々は成り立たないのだ。言われなくても自分たちの責任でやってきたから生き残れているのだ。この文章が出る頃は、どうなっているのか。なんとか先が見えていますように・・・。

2月某日

 興味があって「哈爾浜の都市計画」という本を読んだら、思いもかけなかった発見をした。
 ハルピンという街は、一九〇〇年頃ロシア帝国が中国大陸進出の拠点として作った街だ。一九世紀ヨーロッパ的な、教会を中心に幹線道路、公園、植栽地を組み合わせたバロック都市なのであるが、それがやがて満州国の統括となり、当市の総務所長であった佐藤正俊が都市計画を実施することになる。直径二〇キロほどに街を拡大し、一〇〇メーターを越える広い幹線道路を作り、郊外に大規模公園を配し、大胆な最先端近代都市を造ろうとするのだ。このような試みは、自由に広大な土地を使えたから出来たことで、古い地主のいる狭い内地では、あり得ないことだったのではないかと思う。
 佐藤正俊は、途中で日本に戻ってきて、昭和一七年に名古屋市長となる。そして終戦を迎え、焼け野原になった名古屋市の戦災復興事業を行うことになり、その手始めに、田淵寿郎と言う土木技師を呼び寄せる。
 田淵は内務技監として琵琶湖の利水等の仕事をした後、日中戦争下、上海、南京の戦災地復興をした後、名古屋に赴任。木曽三川の治水を三年ほど行い、再び中国に行って黄河大洪水の復旧、北京の都市計画にかかわって、終戦直前に帰ってきていたところ、九月に佐藤からの手紙が届くのである。以後、田淵は名古屋市技監として、佐藤の絶大な後押しのもと、実に大胆な名古屋市復興を推進してゆく。
 一〇〇メーター道路を交差させ、その中には公園を作る。二〇〇カ所以上の点在する墓地を買い上げ、一カ所にまとめて郊外に広大な平和公園を作る。官公庁も一カ所にまとめ、広い道路と緑を配する。七〇年以上前に、やがて来る車社会と人口二〇〇万を想定して作ろうとした街は、かつて大陸で大志を持って作ろうとした街が随所に結実してはいないか。
 名古屋という街の持つ、どこか大らかな佇まいは、実はかつて大陸の最先端都市の持っていたムードがちりばめられているのではないかと思ったのだった。

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