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あほ犬日記

5/19

 5月15日に、愛知県の自粛要請が一部解除されたが、ライブハウスは、引き続き自粛要請。まだまだ、当然だと思う。仮に自粛要請が解かれたとしても、「感染防止対策を徹底していただくことが条件」とかなんとか言って丸投げにされるわけで、どうしたのものやらなのだが。ましてや、出演者、お客様、双方が遠方から移動してくる可能性があるということになると、やっていいやら悪いやら・・・。さてさて、6月はどうなってるんでしょう。
 とは言え、ライブハウスだけが厳しいわけでは決してなく、例えば居酒屋チェーンや、パチンコ屋チェーンの方が、たぶんきついんじゃないかと思う。そんな中、「文化を守ろう」みたいなことを言われると、なんだか違うなぁと思ってしまうんだよね。テレビの取材とかが来て、厳しい状況を喋ってくれなんていわれると、アホかと思ってしまう。
 ただ、面白い発見なんかもあるのだ。この人は、どういう立場で、どういう考え方をする人なのかというのが、凄くはっきり見える気がする。いい悪いでなく、人間の輪郭がクッキリ見える印象。ということは、僕も丸裸で見えているわけで、気を抜けないな。今池商店街で展開している「今池ハードコアは死なず!」キャンペーンは、とても手応えがあって嬉しいことになっている。あらゆる業種の店にポスターが張り巡らされ、「死なず!死なず!」と、それぞれが声を上げている様子に、連帯と覚悟を感じるのだ。歩いていると、気持ちが前向きになるんだよね。いい商店街だぁ!
 現在5月19日、店を閉めちゃった人もいるし、仕事をなくした人たちも随分多いと思う。にもかかわらず、助成金とやらは一向に届かない。政治家とやらの無能さの輪郭もハッキリ浮き彫りに見える。そんな中、気持ちが病んでしまうのが、なんだかんだ言って一番嫌だ。訳のわからん犯罪があったり、差別が横行したり・・・。そんな気持ちの悪い社会は御免被る。こんな時こそ、この期に及んでポジティブに!と思う。
「Always, try to do the right thing.」とメイヤーは言った。
それぞれの「right thing」をっ!

4/19

 3月中頃までは随分と呑気なことを考えていたものだと思う。ライブの無くなった日には、照明ブースを改装したり、オープンハウスの事務所を作ったり、こんなことでもないと出来ないことをみんなでやって、それなりに充実していた。4月からは徐々に回復し、5月5日の「今池遊覧音楽祭」には今池愛好家達が爆発しているはずだった。がしかし、真逆の展開で3月終盤から急激に緊張感が増し、4月7日には東京をはじめとする地域に緊急事態宣言。4月10日には愛知県でも発令されて、得三もライブをすべて中止した。それから一週間とちょっとの現在4月19日。全く終わりが見えない閉塞状態となっている。
 この一週間というもの、次々と中止になるライブの残務処理や諸々申請書類等と格闘しながら、オープンハウスのランチを開始したり、慌ただしいことこの上ない時間で本当に一日が長い。そんな中、気付いたのだが、どうやら僕は人と会って話したり呑んだりしている時間が無いと、色んなアイデアが浮かばないようなのだ。密室で事務仕事をしていては、全く柔らかい発想が沸いてこない。人と会わないようにしようと日本全体が自粛しているときに、誠に不謹慎なのだが、やはり少しでも人と顔を合わさなければ、次に向かう気持ちになれないのである。
 幸い、心配してオープンハウスの持ち帰りを買いに顔を出してくれる友人もいれば、道を歩けば他の店の店主達と顔を合わせて、考えていることを立ち話することもできる。そんな中、「おうちで今池物産展」という今池のテイクアウト情報を集めたサイトを作って、みんなに声をかけてみたりするのは、楽しいひとときだ。
 4月に入ってやれたライブは4本で、僕が見る事が出来たのは3本。さすがにお客さんの数は少なく、それぞれ20人程度であった。きれいに間隔を空けてまばらに席を取り、楽しんでくれているようにみえた。「ギターパンダ×貝がらMAX」「友部正人」「吉田美奈子×小島良喜」。こんな状況の中、それぞれの覚悟と思いを持って来てくれた3組のミュージシャンと、それでもやって来てくれたお客さん達の間で鳴っていた、緊張感と強い希求に満ちた音楽は得三のかけがえのない財産です。

3/14

やっぱり書いておいてみようと思う。
 ライブの中止および延期が、相次いでいる。この原稿を書いている三月十四日の時点で、とんでしまったライブは二店舗合わせて十八本。頭の中では、ずう~っと円広志のサビがループしていている。こんなことって有るんですなぁ・・・。テレビでは連日ライブハウス・デメリット・キャンペーンの絨毯爆撃、ライブハウスこそがクラスターの一大拠点であるかのごとくアナウンスされる。
 そりゃ、すし詰め状態で跳んだりはねたりワァワァやっているのであればクラスター発生確率は高いであろう。得三でスタンディングすし詰め状態は二〇〇人くらいだ。だが、こんな日は年に一~二回有るかなのだ。ライブの八割は一〇〇人も入らない。時々イェ~イと言ってみたり、ギャハハと笑ってみたりはするが、あとは全員椅子に座って飲食をしながら黙って聴いているのである。五〇人を切る日だってたくさんある。平日昼間の地下鉄より人口密度は低いし、天井だって三メーター以上ある。すし詰めにもなんとか対応できる換気システムは十分需要を満たしていると思う。ライブハウスや、イベントへ行くことではなく、その場所がクラスター発生環境なのかどうかが問題なはずだ。そこをもっとはっきり、わかりやすく提示すべきである。
 さらには、知り合いが「あなたはいつもライブハウスへ出入りしているから、二週間仕事に来るな。」と言われたという。こうなってくると福島からの疎開者を差別するのと何ら変わらないではないか。なんでもいいから声高に文句を言っていないと死んでしまう体質らしきクレイマーさんたちの矛先が、ライブハウスに向けられていると言う話も聞いた。もう、馬鹿馬鹿しくて屁が出るわ。
 僕の知ってるライブハウスやミュージシャン達は、それぞれちゃんと考えている。誰かに何かを言われないと何も出来ないような人間では、我々は成り立たないのだ。言われなくても自分たちの責任でやってきたから生き残れているのだ。この文章が出る頃は、どうなっているのか。なんとか先が見えていますように・・・。

2月某日

 興味があって「哈爾浜の都市計画」という本を読んだら、思いもかけなかった発見をした。
 ハルピンという街は、一九〇〇年頃ロシア帝国が中国大陸進出の拠点として作った街だ。一九世紀ヨーロッパ的な、教会を中心に幹線道路、公園、植栽地を組み合わせたバロック都市なのであるが、それがやがて満州国の統括となり、当市の総務所長であった佐藤正俊が都市計画を実施することになる。直径二〇キロほどに街を拡大し、一〇〇メーターを越える広い幹線道路を作り、郊外に大規模公園を配し、大胆な最先端近代都市を造ろうとするのだ。このような試みは、自由に広大な土地を使えたから出来たことで、古い地主のいる狭い内地では、あり得ないことだったのではないかと思う。
 佐藤正俊は、途中で日本に戻ってきて、昭和一七年に名古屋市長となる。そして終戦を迎え、焼け野原になった名古屋市の戦災復興事業を行うことになり、その手始めに、田淵寿郎と言う土木技師を呼び寄せる。
 田淵は内務技監として琵琶湖の利水等の仕事をした後、日中戦争下、上海、南京の戦災地復興をした後、名古屋に赴任。木曽三川の治水を三年ほど行い、再び中国に行って黄河大洪水の復旧、北京の都市計画にかかわって、終戦直前に帰ってきていたところ、九月に佐藤からの手紙が届くのである。以後、田淵は名古屋市技監として、佐藤の絶大な後押しのもと、実に大胆な名古屋市復興を推進してゆく。
 一〇〇メーター道路を交差させ、その中には公園を作る。二〇〇カ所以上の点在する墓地を買い上げ、一カ所にまとめて郊外に広大な平和公園を作る。官公庁も一カ所にまとめ、広い道路と緑を配する。七〇年以上前に、やがて来る車社会と人口二〇〇万を想定して作ろうとした街は、かつて大陸で大志を持って作ろうとした街が随所に結実してはいないか。
 名古屋という街の持つ、どこか大らかな佇まいは、実はかつて大陸の最先端都市の持っていたムードがちりばめられているのではないかと思ったのだった。

1月某日

 ドラムという楽器は、ツインドラムという特別な例外はあるが、通常一つのバンドに一人いればいいのであって、ドラマー同士が共演する機会というのは、稀な事だ。複数のバンドが一日のステージ上がるときは、ドラム同士が顔を合わせることになるのだが、それでも全く違う音楽をそれぞれ演奏するわけで、如実にその資質の違いが浮き彫りになるというわけではない。
 ドラマーを4人集めて、それぞれが一人のピアニストとデュオ演奏をして、最後に全員でドシャーンと大団円を迎えるという「四つの核心」と題されたライブが、去年に続いて1月に行われた。村上ポンタ、森山威男という超大御所二人と、松下マサナオ、石若駿という、親子以上に歳が違う今や飛ぶ鳥を落とす若手二人、合計4人のドラマーに、演奏家・作曲家としてアグレッシブに精力的な活動を展開するピアニスト伊藤志宏が絡む。かなり企画性の強い試みなので、一回目より客足が遠のくかと思ったら、今年の方がお客さんが集まった。演奏も各人の思惑がよりはっきりして、昨年よりも充実した演奏となったように思う。
 四人の個性がかなり違うので、それぞれの音楽に対する基本姿勢と、プレイ・アプローチの違いが浮き出して見えてとても面白く、若手のエネルギーと貪欲さ、ベテランの揺るぎない信念に裏打ちされた,それこそ「核心」めいたものの凄みを堪能した。4セットのドラムが、店のフロアに円を描くように向かい合い、真ん中にピアノが配置されるセッティングの周りで、場所を移動しながら聞くことが出来るのも、なかなか無い体験。多数の太鼓とシンバルを、一人の人間が、四つの手足を駆使して叩きまくるという、誰が考えたか知らないが、考えてみればかなり乱暴なドラムという楽器が、かくもバラエティーに飛んだ表現をするところまで来ているのだと、改めて思うのだ。
 実は、お客さん達よりも楽しんでいるかのような5人のメンバーが、これはすでにバンドだなどとも言っており、秋に再度登場予定なので、お楽しみあれ。

12月某日

 飲食店をやっていて、最近一番気になるのは、禁煙化とカード支払いである。得三もオープンハウスも、現在は演奏者の指定が無い限り、完全喫煙可で現金支払いのみとしている。まぁ、商売が成り立たなくなっちゃどうしようもないので、世間の動静を観ながら変えていかなければいけないのだろうが、テレビ等を観ていると、ほとんどの人たちが現金を持たなくなるかのような勢いでカード化気配が満載で、ほんまかいなと思う。
 近所の居酒屋「きも善」の前を通ると、扉にバァンと「カードは使えません」みたいな手書きの紙が貼ってあって、とても嬉しくなる。「きも善」で、鯖の塩焼きを食うには、まずノルウェイの海で漁師が鯖を捕まえる事が必要である。その鯖を誰かが買って日本まで運んでくるにも金がかかるがしょうがない。それをどこかが仕入れて売ってるのを「きも善」が買ってきて、火をおこして焼く。ここまでの費用と人件費が上乗せされて、今池でおいしい鯖の塩焼きとなるわけだ。これだけあれば、400円でうまい鯖塩が今池で食える。これがカード支払いとなると、いずれは手数料が店にかかってきて、店は例えば420円にせざるを得ない。鯖とは無関係の中間搾取を払わねば、うまい鯖塩が食えないことになる。扉に「カードは使えません」と書いてあると、あぁ、この店は中間搾取をとられなくてすむのだなと、嬉しくなるのである。
 逆にカードが使える店で現金で買い物をするときは、他の人のカード手数料のいくばくかを、関係の無い自分も払っているのだなと思う。いちいち言わないが、理不尽だと思う。何らかの理由でカードで支払う際の手数料は、本当は支払う側にかかってくるのが道理なんじゃないのか。違うかなぁ?
 僕自身は、ネットでの買い物以外は、まずカードは使わない。信念などというものがあるわけではなく、そういう習慣がないだけだが、全部が全部カードになっちゃうと、ものを買う実感みたいなものが無くなっていくようで、やっぱり嫌だな。

11月某日

 ラグビーW杯が、日本を席巻した。かつて新日鉄釜石が7連覇していた頃、ちょっと齧って観ていた僕も、久方ぶりに便乗して熱狂した。あれは面白いに決まっている。屈強この上なく鍛え上げられた生身の体が、あらぬスピードでぶつかりボールを奪い合い、束になって全力で前へ押し込み、すり抜けてはゴール目指して走りこむ。そのプレイのすべてを、ボールより後ろにいる人たちでやらなければいけないというのも、考えてみれば納得がいく。スキを狙ってヒョイと楽して点を取るのは、潔くもカッコ良くもないではないか。いやぁ、燃えました。まぁ、日本が強くなったってのが大きいんですけどね。
 思えば、僕たちの世代までの人間は、日の丸背負って「君が代」歌うみたなことにとても反感を持っていたように思う。「お国のため」という名の下に多くの人間が死んでいった戦争の記憶が大人の中には、まだ生々しく残っていたのだ。Jリーグが始まって、サッカーのW杯の時に、ある選手が、もっとみんな日の丸を背負って戦わなければダメだ、みたいなことを言ったので、僕は随分違和感を持った。しかし「日の丸は、世界で一番美しい国旗だよ」と言ったその人がラモス選手だったことで、僕はなにかとても安心したのを覚えている。彼の日の丸は、かつての戦争とは全く関係のない、僕たちの知らない概念だったのだ。そう言われてみれば、たしかに日の丸は素晴らしくかっこいい見事な国旗だとも思う。
 ラグビーW杯代表は、国籍関係なく選ばれるのだが、強化合宿の後に、リーチ・マイケルを先頭に宮崎県の「さざれ石」の前で君が代を歌ったという。確かに、スクラムは「イワオとなったさざれ石」のイメージが有るかもしれない。苔むしてはいないけどね。
 来年のオリンピック、日本代表は国籍を元に選ばれるのだと思うが、どんな顔ぶれになるのだろう。頑張れニッポン!の、ニッポンという概念は、かつてと全然違うことになっている気がして、それはそれでとても楽しみにしている。

10月某日

 各地で河川が決壊し甚大な、被害を及ぼした台風19号だが、拍子抜けするほど名古屋は無傷であった。台風が抜けた後も、関東から苦労してやってくる人たちや、ニュースの映像をみていると、申し訳なくなってくる。今回に限った話では無い。毎年のように日本の各地で災害が起こり、かなり深刻な被害を被っているにも関わらず、2000年の東海豪雨以来、いつも名古屋は平気なのだ。しかも今池は、吹上や古出来方面に水が流れていくため、東海豪雨の時でさえほぼ無事だったのであった。まわりには、今池最強説を唱える人もいるが、いつか溜まりたまって巨大な災害がまとめてやってくるのではないかと、この平穏を不安に思っている人も多い。ま、不安がってたってしょうが無いのだが、過去の災害で今池はどのような状態になったかというのを調べてみて、それを参考に被害に備えるというのはどうだろう。
 とはいえ、40年以上今池にいるが、災害で大きな被害を被ったと言う話は聞いたことが無い。今池は戦後に形成された街で歴史は浅いので、空襲などの話も聞かないし、70年代頃から、明日にでもやってくると言われていたマグニチュード8級の東海大地震はやって来ず、ノーマークの阪神と東北で猛威を振るった。海や河川も無く水はけもいい。なんらかの被害があるとすれば、暴風と言うことになるのか。やはり、今池を襲った最大の災害となると、60年前の伊勢湾台風ということになるようだ。昭和34年の今池は、すでにパチンコ屋が何軒かあり、映画館もある。飲食店も多く、集合市場の今池マートもすでに有った。
 広小路通りの得三近くの交差点北側にパン屋さんが有った。ここは、自家製のサンドイッチを作って売っていて、よく買いに行ったのだが、そのうち月遅れのエロ漫画雑誌を三冊まとめて安く売るようになり、それも買っていた。そこの親父さんは、伊勢湾台風の時、雨戸が飛んでいかないように、自分の体に縛り付けていたら、強風で雨戸ごと仲田交差点までふっ飛ばされていったという。雨戸を体に縛り付けるのはやめたほうがいいようだ。

9月某日

 八月にあった「⽊村くんと三宅くんのお盆な⼀週間︕楽しんでや!!!」は、怒濤のようだった。木村充輝、三宅伸治の両氏が、手を変え品を換え七日間ぶっ通しでライブをやるのである。日替わりでやってくるゲストは多彩で、それぞれ個性の強い人たちばかり。実に充実した楽しい一週間ではあるのだが、その代償として、ヘトヘトに疲れてしまう。みなさんお判りかと思うが、毎晩飲んでしまうから、というのがその理由。ゲスト達は、手ぐすね引いて楽しみにやってくるので、二人のゲストはそれに答えねばならぬのだ。結局、毎晩深夜までの宴会状態とあいなるのである。両氏はなかばに一日ずつ交代でお休みの日をもうけてあるのだが、結局様子を見にやって来て、飲む。見てるだけの僕でさえ、日に日にボロボロになってゆくのだから、毎日違う演奏のリハーサルをやって本番やってる二人は、相当しんどいはずである。木村さんなんて、僕より四つくらい年上のはずなのに、毎日本番前から飲んでいて大丈夫なのかなと思う。
 しかし、人は何で酒を飲むのだろう。振り返れば、僕も四十年以上ずぅ~っと飲んでいる。なにか必要に迫られて、相談しなければいけない時は、酒抜きで人と話したりもするが、特別何も無い時は、酒を飲まないと相手と話が続かないのだ。大抵バカみたいな話が多い。しかし、酔いにまかせてたわいの無い話をしているそんな時に、興味深いことに気付いたり、次につながるアイデアが浮かんだりして、僕にとっては必要な時間になっているようだ。ほとんど、それのおかげで、今成り立っているような気がする。
 とは言え、昨今は体力も衰え日々の酒量はまあまあ減った。ゲロなんて十年くらい吐いてないし、脳みそもヘロッてきて話したことを忘れてしまうことも多くなった。三宅伸治氏に「その話は、昨日聞いたよ。」なんて言われることもしばしばだが、もう少し飲んでいたい。あと十年くらい飲みながら機能していたいと思うのである。

8月某日

 僕が小学生の頃、父親が戦争の話をしたのに対し「そんな大昔の話・・云々」と言ったら、ちょっとびっくりした顔で「そうか、こいつらにとっては大昔の話なんだなぁ。」と感慨深げに言ったのを憶えている。父親は二十歳で終戦、僕が大昔と言ったのは、おおよそその二十年後くらいのことだったろう。二十年の年月を「大昔」と感じる子供と、「このあいだ」と感じる大人とがいるのだ。
 いい加減とうの立った大人である僕にとって、七十年前後は中学生くらいの「ちょっと昔」という感覚だ。その「ちょっと昔」に、アングラという流行語が有った。それは音楽や芝居、映画であり、ファッションであり、思想や生き方のようなものだった。あり方としては、HIP HOPという言葉に似ていると思う。
 アングラという感覚は、今でも僕の中のどこかに根付いていると思うのだが、その匂いを濃厚に放つ火田詮子さんという役者が五月に亡くなった。近年は、毎年一回得三にも出演してもらっていたし、お会いしてもいつも元気に話してもらっていたので、あまりの唐突なことにただただ唖然とした。得三以外でも何度か舞台を拝見したが、その立ち姿のかっこよさは図抜けていた。
 火田詮子さんの、活動五十年の記念本が作業中であることも知っていて、どうなるのかと思っていたのだが、編集を受け持った小島女史によると、かなりの作業をすでに終えていたようで、詮子さん本人による「あとがき」原稿もすでに上がってきていたとのこと。この号が出る頃には、そろそろ世の中に出回っているのではないかと思われる。
 何度か詮子さんの自宅へ電話をして、「もしもし」という圧倒的に太い存在感のある声におののいていたのは、携帯電話がごく当たり前になる少し前の「このあいだ」だった。アングラを「ちょっと昔」と感じる人も、「大昔」と感じる貴方も、是非詮子さんを通じてそのあり方を垣間見てみてください。

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